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絵画的アプローチと写真の関係について考えてみた

写真の表現を広げるため、絵画について学ぶ

写真を撮っていくにあたり、かねてから絵画の構造ついて学ぶことが必要と考えていた。

なぜなら、絵画は写真が発明されるずっと前から存在し、やがて写真が登場するまでの間ずっと、「写実」という表現により目の前のものを写し取る役割をしてきたからだ。

したがって素晴らしい絵画には写真を素晴らしくするための技術が眠っているはずだ。

そこで手に取ったのがこの本、「絵を見る技術」。

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やはり写真の技術のルーツは絵画である

読み進めながら、絵画を見る、もしくは作る技術はやはり写真の表現方法のルーツになっていると強く感じた。

特にブレッソンの写真の構成が精緻すぎるのはキュビスム系統の画家に数年師事していたからという話が実に興味深く、写真と絵が切っても切れない例の一つだろう。

キュビスム自体が写真に追われた絵画の世界で制約の元で生み出されたものとすると、ブレッソンは来るべき写真の世界に絵画の技術を応用しようとしたのだろうか(と思ったが、最初は画家になろうとしていたようだ)。

更に読み勧めていくと、現代の写真の本に書かれている構図、例えば水平分割や四分割、日の丸は優れた画家が名画に隠してきた様々な構図や構成のほんの一握りにしかすぎないということがよくわかった。

無論自分の伝えたい思いを形にするということが美術そして絵画の世界の一端であるとは思うが、それを成立させるためには類稀なるアイデアと技術がそこには使われているのだと知る。

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絵画は制約によって創造されてきた

構図に限らず昔は絵具も色によっては高価で使えるものが限られ、自ら発明しなければいけなかった。

そういった制約の中で数々の名画が生まれてきた。美術は制約の歴史なのだと実感できた。

ダ・ヴィンチが数々の学問で業績を残したということも納得できる。そうでなければ名画は描けなかったのではとも思う。

写真や絵を単に鑑賞する時は、なんとなく良い、すごい、という抽象的な感想で問題なく、小難しいことは考える必要はなくて楽しむのが自然だと思う。

だが鑑賞者が良いと思うものの裏にはルールがあり、名画の作り手はそのルールを作ることに力を注ぎ込んできたという歴史に重さを感じた。

間違いなくこれらの技術は写真にも応用できるだろう。ブレッソンがそうしてきたように。

今更ながらその事実を知ったのは何故だろうか?

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写真しか知らない私達が気付かないこと

絵画と写真の大きな違いは、絵画は描くのに時間がかかる分自由にモチーフと色を配置できるのに対し、写真は一瞬で絵ができるがファインダーに映っているものしか捉えられないということ。

故に「現実」の中の「決定的瞬間」こそが写真の持つ最大の魅力だと思う。

しかし、今は絵画より写真を観る機会の方が多い人の割合が高いように思えるので、人々が単に「絵」に求めていたもの(自由に手を加えるということ)が写真になだれ込み、「決定的瞬間」が必ずしも写真の中で大衆にとって最重要ではなくなっているのではないかとも感じた。

故に近場の技術に囚われ、根源的な過去から続いてきた技術、つまるところ絵画的アプローチには目を向けられていなかったのだろう。

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これから何を撮っていくか?

今まで自分は無作為に色々撮っていたが、最近やっと撮りたいジャンルが見えてきたように思う。

これも制約の中で生まれた結果である。

今自由に外出できないということもあり、思うように実践できないのが歯痒いが、この本で知った絵画的アプローチと写真技術、そして自分が撮りたいジャンルの化学反応が何を見せてくれるのか楽しみだ。

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